今月の法話

暑さ寒さも


春の彼岸も無事に終わりました。今年のお彼岸は寒暖差が極めて激しく、体調管理に苦労された方も多かったのではないでしょうか。各お檀家さんのお墓はもちろんのこと、永代供養のお墓にもたくさんのお花が上げられ、さぞご先祖様たちもお喜びであったろうと感じました。永代供養墓は「埋葬頂いたら、そのあとの管理、供養、法要は墓所の管理者で行います」という主旨の墓所なのですが、それにもかかわらずこれだけ多くのお花をお供えいただいたこと、それは皆様のご先祖供養のお気持ちの表れと、温かく受け止めさせていただきました。


さて、毎年3月の第一日曜日に開催しております、地域の守護神、開運毘沙門天の例祭も、今年も開催いたすことができました。例祭の折には毎年毘沙門天にちなんだ文章を書いてお配りしているのですが、今回お配りした文章の要旨を以下にお知らせします。


 


今年の大河ドラマは「光る君へ」。ご存知源氏物語の作者、紫式部の生涯を描くドラマです。京都市上京区、京都御所の真西に蘆山寺という寺があります。平安時代、この廬山寺のあった辺りには中川と呼ばれる清流が流れていました。その川沿いに建てられていた屋敷が「堤第」。「堤中納言」と呼ばれた紫式部の曽祖父・権中納言藤原兼輔(かねすけ)が建てた邸宅で、紫式部はここで育ち、結婚生活を送って一人娘の賢子(かたいこ)を産み育て、1031(長元4)年に亡くなるまでの59年の生涯をこの邸宅で過ごしました。『源氏物語』『紫式部日記』など、紫式部が著した作品のほとんどはこの邸宅で執筆されたといわれています。
蘆山寺はもともと、10世紀の半ばに元三大師良源によって京都市北西部の船岡山の南に創建されましたが、その後16世紀、天正年間に現在の地に移転しました。境内西の大師堂(通常は非公開)には元三大師像を本尊として、左右に不動明王、金山毘沙門天、薬師如来像が安置されています。この毘沙門天は聖徳太子作と伝えられています。太子は皇位継承問題で排仏派の物部守屋らと戦った際、戦勝祈願したのが毘沙門天でした。戦いに勝った太子は仏教をひろめるため四つの天王寺を築きます。大阪四天王寺は有名ですが、京都北山に建立したのが金山天王寺で、本尊を如意輪観音とし、脇侍に毘沙門天像を安置したと伝えられます。その後の経緯は不詳ですが、金山毘沙門天像を廬山寺で祀るようになったのは明治元年からといわれます。現在は「京都七福神」の一人として参拝の対象となっています。紫式部が源氏物語を書かれたその地に、1000年近く後に、古(いにしえ)に聖徳太子が造られた毘沙門天像がやってこられた。なにやら不思議な縁を感じます。


 


気候不順な折、お体、ご自愛ください。


 


 


 


 


 


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