今月の法話

宗教は何のためにあるのか


 


宗教は何のためにあるのか。先日専門誌にこのような問いが出され、さまざまな僧侶の方々が答えていました。「人間が悩み苦しみ、その救いを求めたから」「人は何かにすがろうとするから」「人々が心の安寧を持って生きていくため」など、多様なご意見が聞かれました。それらすべてが正解であろうと思います。
筆者(住職)もしばしばこの問いについて自問するのですが、自分でたどり着いた答えは


「人々がよりかかりたくなったときの背もたれとして、宗教は存在するのではないか」


というものです。
我々は生まれて、老いて、病み、死んでいきます。いわゆる「生老病死」これが四苦で、「愛別離苦あいべつりく(親愛な者との別れの苦しみ)」、「怨憎会苦おんぞうえく(恨み憎む者に会う苦しみ」)、「求不得苦ぐふとくく(求めているものが得られない苦しみ)」、「五蘊盛苦ごうんじょうく(心身を形成する五つの要素から生じる苦しみ)」を加えたものが八苦と呼ばれます。
こういった苦しみから逃れようとしたとき、人はなにかにすがりたくなる、もしくは頼りたくなる。その「支えになるもの」の一つとして、宗教があるのではと考えています。
もちろん、人の支えになるものが、宗教である必要はありません。それは親御さんであったり、伴侶であったり、尊敬すべき人であったり、「推し」と呼ばれる存在であったり、なにかの哲学や思想であったり、人それぞれです。
いずれにせよ人は、ずっと背筋を伸ばして生きていることはできません。どこかでふっと力を抜いて何かに支えてもらう。皆様にとってのその「何か」のひとつとして宗教があれば、我々宗教者にとってそれにまさる喜びはありません。
皆様なにがしかの「生きずらさ」を抱えて日々を過ごしておられるかもしれません。息苦しくなったな、そう思われたら、菩提寺をお訪ねになってみてください。


 


 


 


 




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